第  一  次  世  界  大  戦
                    主 義 と 野 望 の 果て

 ヨーロッパ中世 から 燻る 因縁
  4世紀 〜 5世紀 ゲルマン民族 の 大移動
  6世紀 〜 7世紀 定住 した スラヴ人 が ボスニア王国 建国 後 12世紀 には ハンガリー の 支配下 へ
  1389年 コソボの戦い セルビア王国 は オスマン帝国 に 敗れる  バルカン半島
  1428年 ボスニア は オスマン帝国 の 支配下 へ 入り キリスト教 から イスラム教 へ 改宗 が 広がる
  17世紀 から 対立 する ロシア と オスマン帝国 / オスマン・トルコ は 19世紀 に ロシア が 優勢 に 転じ
   不凍港獲得 を 目指す 南下政策 が 活発化 し 地中海 への 道 を 築く ため 黒海 の クリミア半島 で
  1854年 クリミア戦争 ロシア と 同盟軍 / オスマン帝国 ・ フランス ・ イギリス
  1856年 パリ条約 クリミア戦争 の 講和会議 で ロシア が 敗戦 し 終戦
    クリミアの天使 イタリア の ナイチンゲール が 野戦病院 の 婦長 として 全て の 兵士 を 看護
  1871年 普仏戦争 フランス統治下 で ドイツ帝国 成立
  1875年 ボスニア蜂起 オスマン帝国 に 支配 される ボスニア人 が 反乱
   イスラム教 ・ ユダヤ教 ・ キリスト教 が 混在 比較的 信行 の 自由 に 恵まれた が 地主 に 多い
     イスラム教徒 と 小作人 に 多い キリスト教徒 との 経済的格差 は 度々 宗教対立 に 様相 を 変える
  1876年 露土戦争 セルビア が オスマン帝国 に 宣戦布告
   ロシア は 再び 南下政策 を 開始 し バルカン半島 の スラヴ民族 独立 と 称して セルビア側援軍
     として紛争 に 介入 し ロシア と オスマン帝国 が 開戦
  1878年 サン・ステファノ条約 露土戦争 の 講和条約 で ロシア が 勝利 し 終戦
   セルビア も 独立 を 承認 され 独立 と 自治 が 拡大 し ボスニア にも 自治権 が 付与 される が
    イギリス ・ オーストリア が ロシア の 勢力拡大 を 恐れ 1856年 の パリ条約 での バルカン半島
     及び 欧州 の 勢力均衡 に 基づく 利害調整 を 行なう 為 ロシア と オスマン帝国 の 双方 と
      三帝同盟 を 築く ドイツ に 仲介 を 要請 し ビスマルク が 仲介
    6月 ベルリン会議 1389年 オスマン帝国 に 敗れた セルビア人 の ボスニア・ヘルツェゴヴィナ は
     オーストリア へ 併合 される 事 となり 多く の セルビア系 ボスニア人 は バルカン半島 の
     セルビア や その 周辺国 / 南スラヴ諸国 への 統合 を 望み 反発 を 強めて いく
 
   古代ローマ皇帝 カエサル 系譜 の ドイツ系 貴族 / ハプスブルク家 は 中世 から 20世紀 に わたり
    オーストリア ・ ハンガリー ・スペイン 等 に 沢山 の 国王 を 輩出 した ヨーロッパ 一 の 名門王家 で
    1273年 ドイツ王 になり 領土 を 拡大 - 1867年 同じ 君主 が 治める 同君連合 の オーストリア と
    ハンガリー が 連邦国家 として 統合 され オーストリア・ハンガリー帝国 が 誕生 しました ・・・
 
  技術 の 集積 で 近代戦争 での 犠牲者 は 急増 し 大戦 や 紛争地帯 が 拡散
   1861年 南北戦争 の アメリカ で 気球 を 使い 偵察 ・ エンタープライズ号
   1900年 ドイツ で 飛行船 が 就航 し 軍用 として 空爆 にも 使用 ・ ツェッペリン号
   1909年 アメリカ で 最初 の 軍用機 が 登場 し フランス ・ ロシア ・ イギリス ・ イタリア ・ ドイツ と 拡大
 
 第一次世界大戦   国民 や 国家経済 を 総動員 した 総力戦
 
  1914 / 大正3年 6月28日 サラエボ事件 オーストリア ・ ハンガリー帝国 大交夫妻 暗殺
   国王 の 正式 な 継承者 大交 / 皇太子 が ボスニア・ヘルツェゴヴィナ 視察 の 折 首都 サラエボ で
    ボスニア出身 の セルビア人 活動家 / ガヴリロ・プリンツィプ に 暗殺  未成年 で 懲役 20年 - 獄中死
 
    大交 の 妻 は ボヘミア の 伯爵家出身 で ハプスブルグ家 にとって 格下 で 相応しくない と 猛反発
    大交 と 結婚後 は 王 / 皇族 の 一員 と 認められず ウィーン で 不遇 の 生活 を 強いられ - そんな
    妻 を 気遣い 14回目 の 結婚記念日 に 大交 は 妻 と 共 に ボスニア・ヘルツェゴビナ へ 旅立った
    その日 は 1389年 セルビア が オスマン帝国 に 破れた コソボの戦い の 記念日 で 重要 な 祝日
 
   各国 緊張状態 の 最中 各国 は 総動員 を 発令 し 瞬時 に 世界中 に 連鎖
     ヨーロッパ を 主戦場 に 中東 ・ アフリカ ・ 東アジア ・ 太平洋 ・ 大西洋 ・ インド洋 へ 拡大
 
   7月23日 オーストリア ・ ハンガリー帝国 は セルビア王国 へ 最後通牒 通告
     セルビア への 侵攻 を 肯定 する為 10ヶ条 に 及ぶ 受け入れ 不可能 な 要求 を 出す
   7月25日 10ヶ条 の 内 2つ が 保留 となり 国交 を 断絶 し - 7月28日 宣戦布告
 
  中央同盟国 ドイツ帝国 オーストリア = ハンガリー帝国 オスマン帝国  ブルガリア
    オスマン帝国 / オスマン トルコ    志願兵 アドルフ・ヒトラー も 西部戦線 で 従軍
  連合国  イギリス フランス ロシア セルビア に 加え 日本 イタリア アメリカ が 後 に 参戦
 
 西部戦線 ドイツ VS イギリス ・ フランス      戦場 は ベルギー から フランス
   8月2日 ドイツ は ルクセンブルグ へ 侵攻 し 無抵抗 の まま 占領
   8月4日 ドイツ は ベルギー に 侵攻 し 一気 に フランス の 首都 パリ へ 迫る が ・・・
    ドイツ の 予想 に 反する ベルギー の 抵抗 は 敗走 しながら も 続き 速攻作戦 も 予定外 に
   9月5日 マルヌの戦い フランス は パリ まで 70 km の セーヌ川支流 マルヌ川 で ドイツ を 迎撃
    ドイツ は 戦線 を 後退 し スイス から イギリス海峡 に 至る 戦線 を 構築 し 塹壕 を 敷設
     この後 こう着状態 が 続き 塹壕戦 が 展開     毒ガス / 塩素ガス の 登場
   10月10日 第一次イープルの戦い ドイツ は 実験的 に ベルギー で イギリス軍 へ 毒ガス を 使用
  1915年 4月22日  第二次イープルの戦い 170 トン の 毒ガス を 使用 し 数分 で 5000人 が 死亡
    毒ガス は 1899年 オランダ 開催 の 第一回万国平和会議 で 採択 された ハーグ陸戦条約 違反
    その後 も 毒ガス の 使用 を 繰り返す が 連合軍 も ガスマスク で 応戦 し 効力 も 無くなる
    アメリカ から の 補給路 を 断つ 為 - 敵国 全て の 艦船 を 攻撃 する 無制限潜水艦戦 開始
    塹壕戦 でも 砲撃 する 全線 の 幅 を 狭め 集中攻撃 を 狙う
  1916年 2月21日 ヴェルダンの戦い ドイツ が 火炎放射器 で 陥落 を 狙う が 援軍 が 到着 し 失敗
   ドイツ の パリ への 進路 に 当る フランス北東部 の 町 ヴェルダン を 撤退 する 事 が 許されない
    戦略上 の 要所 として 要塞 を 構え 死守 する ・ 作戦名 : 処刑場
  1916年 7月1日 ソンムの戦い 連合国 の 反撃 に ドイツ軍 100 万 の 損害 イギリス軍 が 戦車投入
  1917年4月5日 ヒンデンブルク・ライン 防衛線 を 後退 し 守り を 固め 侵攻 は 他 の 戦線 が ・・・
     4月6日 アメリカ は 無制限潜水艦戦 で 被害 を 受ける 補給船 を 理由 に 連合国 として 参戦
      護送船団 / コンボイ 単独航海 から 軍艦 による 護衛 を 付けて の 船団 とし 被害 が 軽減
       ロッテ戦術 ドイツ の 戦闘機 は 単独飛行 せず 2機編隊 で 相互支援 する事 で 優位 に
 
   戦闘 の 主力 は イギリス軍 に 任される  強固 な ヒンデンブルク・ライン の 攻防 で 疲弊 する
                   フランス軍内 で 戦闘放棄 が 相次ぎ 酒びたり や モラル の 低下 に 苦慮
    6月25日 アメリカ軍 が 到着 し アメリカ合衆国遠征軍 を 組織 - 新兵 が 多い が 士気 が 向上
    7月7日 イギリス軍 一斉攻撃 開始 4日 に 及ぶ 砲撃 後 - 1915年 から 掘り 進められた
     ドイツ軍 陣地 真下 の トンネル に 450トン もの 爆薬 を 敷設 し 爆破 - ドイツ兵 1万人 死亡
      ドイツ は 塩素ガス に 代え マスタードガス を 開発 し 砲弾 に 詰め 砲撃 する と 連合国 も 使用
  1918年3月21日 ミヒャエル作戦 ドイツ初 の 戦車 も 登場 し 一斉砲火
    統一指導者 の 居ない 連合国 は 連携 が 乏しく アメリカ の 加勢 にも 好転 しない 内 に 叩く 作戦
   浸透作戦 塹壕 への 砲撃 で 弱まった 部分 を 突き ながら 孤立 させ どんどん 壊滅 していく 戦術
    連合国 の 防衛線 が 破られ ドイツ軍 は 60 km 前進 し パリ まで 120 km に 迫る
    大型列車砲 が パリ に 180発 もの 砲弾 を 撃ち込む と 市民 は パリ から 脱出 し 始める
   連合国軍総司令官 指揮系統 の 統一 を 模索 し イギリス の フェルディナン・フォッシュ を 登用
    毎月 30万 の 兵士 が アメリカ から 到着 し 200万 を 超える 勢い に 戦況 にも 変化 が ・・・
     ドイツ は パリ に 向け 進軍 し 続ける ものの 連日 の 激戦 で 兵力 が 減少 し 疲弊 する 中
      ドイツ国内 でも 経済 等 で 混乱 を きたし 皇帝 / カイザー : ヴィルヘルム 2世 が 退位 し
     11月3日 水兵 の 反乱 から ドイツ革命 が 発生
      東部戦線 は 優勢 だった ものの 革命 による 臨時政府 は 連合国 との 休戦 を 選択
 
    消耗戦 / 塹壕戦 塹壕 を めぐる 駆け引き
     塹壕 に 向けて 大規模 な 砲撃 後 に 有刺鉄線 と 機関銃 で 守られた 塹壕 に 歩兵 が 突入
     塹壕戦 の 打破 に 戦車 や 航空機 ・ 毒ガス も 使用 される が 難攻 し 一進一退 の こう着状態 に
 
 東部戦線 ドイツ帝国 ・ オーストリア ハンガリー帝国 ・ オスマン帝国 / オスマン トルコ
  1914年 8月17日 タンネンベルクの戦い ロシア の ドイツ侵攻 に ドイツ軍 が ロシア軍 を 破る
     連合国 に とって 東部戦線 の 主力 である ロシア軍 が 消極的 になり 同盟軍 の 優勢 が 続く
  1916年 6月4日 ブルシーロフ攻勢 ロシア軍 が オ−ストリア = ハンガリー帝国 を 撃破
     ロシア帝国軍 南西戦線総司令官 アレクセイ・ブルシーロフ 指揮 - 兵 41万人 を 捕虜 とする
 
  ルーマニア戦線 中立 を 保つ ルーマニア は ブルシーロフ攻勢 で 踊らされ 参戦 する が ・・・
   1916年 8月15日 トランシルヴァニアの戦い ルーマニア が 連合国軍 として オーストリア へ 侵攻
       11月 ブルガリア軍 の 攻撃 に 国境線 まで 敗走 し 後々 連合国 の 重荷 となる
       12月6日 ドイツ軍 も 加わり 追い詰められ ルーマニア の 首都 ブカレスト 陥落
   1918年 5月7日 ブカレスト講和条約 ルーマニア が 同盟国 に 降伏
    当初 連合国 に とって は 士気 上がる 参戦 だった が 戦争 への 準備不備 が 祟り 僅かな 敵勢力
     にも 打ち負かされ ドイツ との 交戦 で 劣性 も 極まると 連合国 には 重荷 となり 最後 には
     後ろ盾 の ロシア が 革命 で 戦線離脱 する と 直ぐ に 降伏 し 石油 や 小麦 が 同盟国 へ 流出
 
  1917年 9月1日 リガ攻勢 ドイツ軍 が ロシア軍 を 破る
  1917 / 大正6年 11月7日 ロシア革命 史上初 の 社会主義国 樹立 へ ・・・
   ボリシェビキ ロシア社会民主労働党 から 改革派 が 分裂 = レーニン 率いる 左派
 
  東部戦線 は ドイツ 有利 だった ものの 西部戦線 の 状況 と ドイツ革命 から 休戦 へと 進む

 終戦 1918 / 大正7年  各休戦協定 締結 で 停戦
    9月29日 ブルガリア  10月30日 トルコ  11月4日 オーストリア  11月11日 ドイツ
  1919 / 大正8年 6月28日 ヴェルサイユ条約 / 講和条約 で 正式 に 終戦
     6ヶ月 に 及ぶ パリ講和会議 の 末 - ヴェルサイユ宮殿 / フランス で 締結 調印


  近代兵器 投入
   戦車 航空機 毒ガス も 投入 され 開戦後 開発 された 機関銃 は 戦略 を 一変
    機関銃 による 待ち伏せ攻撃 VS 塹壕 / ざんごう を 掘りながら 進軍 する 塹壕戦
   防御側優位 攻め側 は 不利 になり 西部戦線 では スイス から 伸びる 塹壕線 の 突破 に
     数百万 の 若者 が 塹壕 から の 弾幕射撃 に 身 を 投じ 両軍 共 ほぼ 同数 の 損害発生
    両軍 で 戦死者 1000万人 - 行方不明者 800万人 を 超え 史上最悪 の 悲劇 に 見舞われた
 
  海軍大臣 ウィンストン・チャーチル 談
   第一次世界大戦以降 戦場 から 騎士道精神 が 失われ 戦場 は 単なる 大量殺戮 の 場所 と 化した
 
  ドイツ革命 で 翌年 出来た ヴァイマル共和国 を 批判 する 為 に 右翼 は 戦争 には 勝った が
      裏切り者 に よる 背後 の 一突き で 敗れた との 風潮 を 広め 後 の ナチス への 変遷 となる


 西部戦線異常なし 1929年 レマルク の 小説 ・ ラストシーン で 久しぶり に 砲撃 が 無く 静かな 塹壕
  ドイツ軍志願兵 の 主人公 は 警戒 し 構える 銃口 に とまった 一羽 の 蝶 に 手 を 伸ばし 塹壕 から
  身 を 乗り出した 瞬間 フランス軍 に 射殺 され その日 ドイツ が 本国 に 宛てた 電報 は
  西部戦線異常 なし - 報告 すべき 件 なし だったのです
 アラビアのロレンス 1960年 イギリス映画 ・ イギリス軍エジプト基地 の イギリス陸軍将校 ロレンス は
  オスマントルコ から の アラブ独立闘争 を 率いる ファイサル1世 / 後 の イラク 初代国王 との
  協定 を 結ぶ 為 アラビア へ 渡り 政治 に 巻き込まれ ながら アラブ人達 と 戦った アラブ の 英雄

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