油 田 開 発
秋田 の エネルギ− 1 既存エネルギ− の 維持 と 再開発
天然アスファルト 自然 に 染み出た 油 は 古来 から 知られ 活用 されて いました
紀元前 4000 年 メソポタミア では 彫刻 ・ 紀元前 2500 年 エジプト では ミイラ の 防腐剤
日本 の 縄文人 は 矢じり の 接着 や 土器 の 補修 に ・・・ 以下 秋田県史 から
21 世紀 の 日本 は 殆ど の 石油 を 輸入 で 賄って います が 使用量 の 増加 が
関係 している の かも 知れませんが 一 時 は 75 % 生産 していた 歴史 も ・・・
1871 / 明治 4 年 長野 で 機械 に よる 日本初採掘
1891 / 明治 24 年 新潟県 出雲崎町 の 尼瀬油田 で 近代工法 へ
油 田 王 国 秋 田 明治初期 千蒲善五郎 師 が 初採掘 - 明治中期 秋田県 は 近代工法 を
学ぶ 為 石油調査生 を 新潟県 に 派遣 - 明治末期 大企業 が 県内 へ - 日本政府 は
第二次大戦時 半官半民 の 合併会社 『 帝国石油 』 設立 - 大規模 な 開発 が 始まり
戦後 の 高度経済成長期 前半 には 八橋油田 が 国内 一 / 全県 では 国内 の 8 割
隆盛 を 極める 中 経済成長 後半 には 枯渇 気味 と なる が 未開発地域 が 多々
残存 し 日本政府 は 1952 / 昭和27 年 石油及び可燃性天然ガス資源開発法 制定 -
幾多 の 石油資源開発 五ヶ年 計画 にて 秋田 と 新潟 で 復活
秋田 の 石油 は 浅層 400m 〜 500m と 深層 1000m 〜 1800m で 江戸時代 から 知られ
開発 の 拡大 @ 大潟村周辺 の 昭和町 で 豊川油田 や 黒川油田 が 開発 され
黒川油田 は 大正 10 年 に 最大量 / 八橋 の 最大時 の 半分 k l : キロリットル
A 八橋油田 昭和 8 年 殆ど ナシ から 増産 し 黒川油田 の 最大時 15 万 k l と なり
その後 一進一退 で 増え 大量採油 と なり 昭和 34 年 の 30 万 k l / 昭和 10 年 の
2 倍 を ピーク に 昭和 38 年 まで で 3 割 以下 へ 急降下 B 昭和 40年 頃 から
大潟村周辺 へ 戻り 若美町 で 申川 さるかわ 油田 が 15 万 k l で 掘り 続けた
他地域 では 県南部 に 由利原油田 ・ 院内油田 ・ 小滝油田 ・ 上浜油田 ・ 桂坂油田
大 陸 棚 へ 白 竜 号 はくりゅうごう 1958 / 昭和 33 年 石油資源開発 が 建造
秋田 ・ 新潟沖 で 稼働 水深 27 m まで 可能 後 に 第一白竜 と 改名
第二白竜号 は 深度 50 m に 固定 出来 それ 以上 なら 浮いた まま 採掘 も 可能
その 後 も 建造 され 続け 2015年 には 12 機 目 も 建造 日本海洋掘削 に 移管
※ 現在 も 稼働中 の 油田 を 筆者 近隣 の 八 橋 油 田 で 記録
八 橋 やばせ 油 田 秋田市 八橋 振 り 子 式 2016 / 平成 28 年 再掘削調査
新屋浜 でも 記憶 に 残る 振り子 式 は 秋田市 西部 から 海岸線 一帯 - 最 盛 期
昭和 25 年 〜 35 年 には 油井 1000 以上 で 埋蔵量 ・ 総生産量 日本一 を 記録
第二次世界大戦 が 勃発 した 1939 / 昭和 14 年 久原鉱業 ( 現 日本鉱業 ) の
上総 4 号井 から 始まり 戦後 帝国石油 が 開発 を 継承 し 継続中
新 八 橋 油 田 秋田市 外旭川 ク ラ ン ク 式
秋田市 東部 秋田自動車道 秋田北 I C 方面 草生水 川 流域 / くそうず = 石油 の 古語
夢 の 後 ・・・ 高度成長 の 時代 海外 の 安い 原油 に 開発 も 移行
そんな 中 にも 国内 の 新規掘削 や 探査 も 続く 中 八橋油田 では 残された 資源 の
再掘削 へ 油井 周辺 に 弾丸 を 打ち込む ガンパー方式 も 採用 され 探査技術 も
進歩 し 深度 1000 m から エアガン方式 で 3000 m まで 探査可能 に ・・・
再 来 ・・・ 2003 年 8 月 から 大潟村 で 新規 掘削開始
一帯 で 八橋 を 凌ぐ 埋蔵量 との 推察 から その 後 県内 各地 で 試験探査 へ ・・・
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