東  日  本  大  震  災


       2011 / 平成 23年 3月 11日 ( 金 ) 14 : 46 発生
   今日 は 自分 に とって の 鎮魂 の 日 : 快晴 の 青空 が 痛々しかった  詳細 データ
  二年半 過ぎた 平成 25年 9月 訪問 - 中々 踏み込めなかった が そろそろ 災害 の
   痕跡 も 荒々しさ を 和らげた で あろう と 鎮魂 と 冥福祈念 で 訪れた ものの いまだ
    破壊 された 歴史 を やっと 後始末 した 状態 で 当日 の 凄まじさ に 改めて 圧倒 された
    過去 の 教訓 を 精査 し 津波 から 人間 を 守る 為 に 造られた 世界最大 の 壁 と して 造られた
     防災 の 砦 田老 の スーパー堤防 は 越えられ 街 と 人々 は 消えた が 堤防 は 残った ・・・
     視察 も 度々 行われ 防災 の 最先端 と されて いた 人類 の 創造物 が 散った 瞬間 だった
 
 
 
 5 . 4 m の 二本 の 防波堤 が 海 から 街 を 隔絶 し 未来永劫 の 繁栄 を 約束された 地 の 筈 だった
 
 
 
  
 
  逃げずに まず 堤防通用口 の 門 を 閉めに 駆けつけた 消防団員 は 亡くなり 津波 は 堤防 を 越えた
 
  
 
 岩手県 の 田老 から 南下 して 宮城県 石巻 まで の 行ける 範囲 を 辿る   田老町 ⇒ 宮古市 ⇒
   山田町 ⇒ 大槌町 ⇒ 釜石市 ⇒ 三陸町 ⇒ 大船渡 ⇒ 陸前高田 ⇒ 気仙沼 ⇒ 大川小学校 ⇒ 石巻
 
 
 
 何も 無くなった 本当 に 嘗て 此処 に 街 が あり 人々 が 生活 していた のか と 想う 程 の 荒野 が 続く
 
 
 
  
 
  運命 は 容赦 無い が 陸前高田 で 残り 復元 された 奇跡 の 一本松 は 希望 の 証 と なって 行く
 
  
 
 
 
  非日常 と 言う 言葉 では 表せない 有り 得ない 光景 - 気仙沼 では 街 の 奥 の 交差点 に 大型船
 
 
 
  
 
 国道 45号線 を 走行 している と 随所 に 記された 津波浸水区間     津波 の 際 は 退避
 
  
 
 15時 36分 津波襲来 - 児童 108名 中 74人 ・ 職員 13名 中 10名 死亡
  石巻市立 大川小学校 震源地 の 牡鹿半島 の 近く で 石巻 より 手前 の 北上川 河口 から 5 km
    検証 から の 後世 への 伝言 : 地震後 直ぐ に 高台 へ 避難 せよ
   地震発生後 壊れた 校舎 から 中庭 へ 児童 を 出し 点呼 や 避難場所 の 討議 で 時間 が 流れ
   避難 は 裏山 が 最良 だった が 高齢者 も 含まれており 子供 にも キツイ 斜面 と 言う 結論 で
   堤防 より は 高い 近く の 交差点 へ 避難 し 始めた が 津波 が 前方 から 押し寄せ 向き を 変える も
   小学校 を 取り囲む よう に 山 以外 の 三方 から 襲い 掛かり 山 しか 逃れる 術 を 失った が
   裏山 へ 走る も 慌て ふためき 間 に 合わなかった - その 時 交差点 も 浸水 していた
 
    北上川 に かかる 新北上大橋 を 渡る と 左手 に 小学校 が 有り 笑い声 が 絶えません でした
 
 
 
   入り口 / 上画像左横 と 校庭 の 山側 に 被災学童鎮魂供養像 が 安置 され 冥福 を 祈っています
 
 
 
          校庭 から 望む 校舎   -   此処 で 座り 無常 にも 時 が 過ぎて いきました
 
 
 
  
 
 
 
 校舎 から この 方向 に 先 / 画像左上 の 交差点 を 目指している 途中 正面 と 右横 更 に 後ろ から
  津波 が 襲い かかり 驚き 左 の 山 へと 方向転換 して 散り散り に 逃げ 多く が 間に合いません でした
 
 
 
  
 
  

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