な  ま  は  げ  伝  説
 

 なまはげ を 祀り なまはげ行事 を 伝承 する 神社 ・ ゆかりの地 / 発祥 の 地  男鹿半島
  秋田県 男鹿市 北浦 真山 / きたうら しんざん 真山神社  なまはげ館 ・ 男鹿真山伝承館
  秋田県 男鹿市 船川港 本山 門前 / ほんざん もんぜん 赤神神社五社堂  国指定重要文化財

なまはげ 1978 / 昭和 53年 国重要無形民族文化財 に 指定   泣ぐ子はいねが - 〜 
  一年 の 節目 として 年越し の 夜 に やってきて 災い を 祓い 戒め と 慈悲 を もって 祝福 を 与える 神

なまはげ伝説 男鹿半島 の 60 もの 集落 で 行う 民族行事
 
 赤神山本山縁起 門前 赤神神社 に 伝来 する 伝承 を 江戸時代 の 1681年 秋田藩 家臣
     梅津利忠 師 が 永禅院主 別当堯範 の 口述 や 旧記 を まとめて 編纂 した 通説 の 一編
   第12代 景行天皇 2 年 / 72 年 に 赤神 と 称する 考武帝 が 渡来
    第12代 景行天皇 の 息子 である 日本武尊 / やまとたけるのみこと は 武勇 に 優れ 親 からも
     恐れられ 軍勢 も 付けず に 東方遠征 へ 送り - 最後 は 守り刀 を 置いて 伊吹山 の 神 を
     神 を 討ちに 向かう が 亡くなり 後 に 墓 から 白神 / 白鳥 に 化身 し 天 へ 飛び立ち
      漢 へ 武帝 を 向かえ に 行き 武帝 は 白馬 の 飛車 に 乗り 男鹿 へ 迎えられた
     日本書紀 で 愛された 日本武尊 も 古事記 では 憎まれ 文献 で 違う 表現 も 多く 古書 は 難解
 
 秋田のむかし話 九百九十九 の 石段
  漢 / 現中国 の 孝武皇帝 / 武帝 は 赤神 と 称して 白い 鹿 の 曳く 飛車 に 乗り 5 匹 の コウモリ を
   連れ 男鹿 に 渡来 する と 5 匹 の コウモリ は 鬼 に 姿 を 変え 家来 として 赤神 に 仕える が 正月
   だけ は 休み を 与える 事 とし 鬼達 は 喜び 勇んで 里 へ 下り 羽目 を 外して 騒ぎ 畑作物 や 家畜
   の 略奪 から 娘 を さらう 悪事 にまで 及び 村人 は 鬼退治 に 出掛ける が 散々 な 目 に 遭い
   考えた 末 に さすが の 鬼 でも 一晩 で 1000段 の 石段 は 作れまい と 考え 武帝 に 御願い した
    五社堂 まで一夜 で 千段 の 石段 を 作れたら 毎年 一人づつ 娘 を 差し上げる が 出来なかったら
    二度 と 里 には 降りて 来ない で 欲しい 鬼達 は 999 段 積み あと 一段 に 迫った 時
   慌てた 村人 が 物まね の 巧い 天邪鬼 / あまのじゃく に 一番鶏 の 鳴きまね を 頼み それ を 聞いた
   鬼達 は 負けた と 覚り 山奥 へ 退散 - それ 以降 村人 は 鬼 を 回顧り 毎年 大晦日 の 12月31日
    旧 1月15日 夜 鬼 の 姿 を 真似 て 村内 を 歩き回る 祭り を 始め なまはげ 発祥 と なった と 言う
 
  伝説 は 夢 の 彼方 へ なまはげ の 正体 は 5 匹 の 鬼 ・ 天邪鬼 ・ 修行者 ・ 漂着 した 外国人 ・・・
   なもみはぎ なもみ は 怠け者 が 冬 こたつ から 離れず 付いた 火型 で それを 剥ぐ  なまはげ
    なもみ を 剥ぐ と 言う 事 は 怠け者 を 戒める と 言う 事 で 土着 の 民間宗教 の 姿 を 今 に 残す
    ワラ で 編んだ ケデ / 蓑 / みの を 身 に 付け なもみ を 剥ぐ 出刃包丁 と 入れる 桶 を 持った 風貌
    と 伝説 は 平安時代 の 修験者 に よる 創作 とも 言われる が 定か では ない ・・・

 歴史背景 民衆 の 生活水準向上 と 豊かな 生活 を 実現 する 勤労精神 の 励行
  秋田 の 農聖 石川理紀乃助 が 朝 3 時 に 各農家 を 起こし 回った 風景 を 想い 起こさせる

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