真 山 神 社
秋田県 男鹿市 北浦 真山 / きたうら しんざん 男鹿半島 ・ なまはげ伝説
秋田杉 の 林立 する 真山 に 鎮座 し 古事記 や 日本書紀 に 記述 される 日本神話 の 神々 を 祀る
※ 土着 の 信仰 から 発 し 中央 の 接触 にも お山 一体 で 移り行き 各々 開かれた 社殿 は 違う
ものの 赤神神社 五社堂 とも 重なる 縁起 / 歴史的 な いわれ の 詳細 は こちら に 集約
弥生時代 後期
第12代 景行天皇 2 年 / 72年 赤神 と 称する 考武帝 が 渡来
赤神様 の 住む 山 は 赤神山 として 土着 の 赤神信仰 が 始まり 赤神神社 が 創建
100 年 前後 大和朝廷 から 視察 に 訪れた 武内宿禰 / たけうちのすくね が 赤神山 に 登り
主祭神 2 柱 瓊瓊杵命 / ににぎのみこと ・ 武甕槌命 / たけみかづちのみこと を 祀り 創建
武内宿禰 大和朝廷 で 仁徳天皇 等 5代 244年 に 亘り 大臣 として 仕え 国政 を 補佐 し
360歳 で 山陰 に 下り 行方不明 と なった と 伝えられる 伝説 の 英雄 霊能者 ・ 長寿 の 神
平安時代 初期 860 年 天台宗 の 慈覚大師円仁 が 此処 を 訪ね 神仏習合
天台宗 に よって 比叡山延暦寺 の 守護神 である 赤神明神 と 神仏習合 し 熊野 を 映す
一般 に 大山咋神 が 守護神 と されます が 大山咋神 も 赤神明神 も 本地垂迹 では 同じ 仏 / 薬師如来 の 化身 です
慈覚大師円仁 が 熊野 に ならい @ 赤神山 / 湧出山 を 北 の 真山 と 南 の 本山 に 分けて 命名
A 伽藍配置 も 同様 とし B 本山 を 表 に - 真山 は 裏 と する / 山掛け の 順路 にも 名残り
真山神社本殿 / 真山山頂 と 真山別当 光飯寺 / 現拝殿 開場
神仏習合 による 合殿神 天照大御神 / あまてらすおおみかみ 豊受大神 / とようけのおおかみ
豊玉毘女神 / とよたまびめのかみ 少彦名神 / すくなびこなのかみ 大山咋神 / おおやまくいのかみ
大名持神 / おおなもちのかみ 塞神三柱神 / さえのかみみはしらのかみ
山岳信仰 の 霊場 10 km の 山道 が 男鹿半島 を 縦断
お山 / 真山 と 本山 : 山掛け道 / 修験者 の 行道
順路 B から 順路 が 正規 で 逆路 は 門前 へ 門前 ⇒ 赤神神社 ⇒ 赤神神社五社堂 ⇒
⇒ 毛無山 645m ⇒ 本山 715m ⇒ 真山 567m ⇒ 赤神神社 / 現真山神社 ⇒ 北浦
室町時代 初期 / 南北朝時代 1391 年 真言宗 に 改宗 し 修験 の 一大霊場 へ
真山 では 薬師堂 に ・ 本山 では 五社堂 に 災難 祓い として 本尊 薬師如来坐像 を 安置
明治維新 1868 年 神道国教化 による 神仏分離令 光飯寺 は 廃され - 赤神神社 は
真山神社 へと 改名 し 光飯寺金剛童子堂 は 万体仏 と 名 を 変え 里 へ 移動
護摩 天台宗 等 の 密教 で 行われる 祭儀 で 火中 に 供物 を 投じ 天 の 神 へ 送り 祈祷 する
護摩餅 には 神力 が 宿り 災難 を 免れる 御守り となる 御護符 / おごふ に なります
此処 山腹 には 昭和34年 新た に 完成 した 拝殿 ・ 拝殿 の 後方 に 本殿 ・ 真山山頂 には 奥宮
境内奥 には 赤神神社五社堂 と 別 に 五社堂 と 呼ばれた 現五社殿 は 火災 で 焼失 し 1社 に 統合
拝殿脇 から の 薬師堂 には 神仏習合 の 面影 を 残す 本尊 薬師如来坐像 を 安置 し 災難 を 振り払う
平成 3年 創建 の 神楽殿 には 信仰 の 中心地 として 佐竹藩主 から 贈られた 神輿 / みこし が 奉納
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