小 坂 鉱 山 事 務 所

     歴史 の 中 に あって 埋もれる 事 なく 日本 の 歴史 と 未来 を 見詰めて きた 洋館
 歴史 に 刻まれた 栄華  日本一 の 銅山 と 一二 を 争う 銀山 を 背景 に 大正時代 の 秋田県 人口
  90 万人 に 対して 36000 人 の 秋田市 に 僅差 で 続く 県内 第二位 の 賑わい は 閉山 と 共 に
   忘れられ 現在 は 7000 人 程 に 激減 した が 日本 の 原風景 : 豊かな 山村 の 静けさ が 戻った
        鉱山開発  秋田県 の 鉱山 - 鹿角市 尾去沢鉱山 ・ 大仙市 荒川鉱山
 
          小坂鉱山事務所 と 康楽館 は 2002 / 平成14年 国重要文化財 に 指定
 
   
 
 小坂鉱山 明治 の 富国強兵下 で 殖産興業政策 を 牽引 し 日本 の 近代化 に 貢献
  1683 / 天和 3年 の 江戸時代初期 に 銅山発見 後 長続き せず 閉山 
  1861 / 文久 元年 の 江戸末期 に 小坂農民 が 銀 を 採掘 し 盛岡藩 / 旧南部藩 が 直轄
  1866 / 慶応 2年 盛岡藩 の 大島高任 が 調査 を 行い 翌年 1867 / 慶応 3年 から 開発着手
  1868 / 明治 元年 〜 戊辰戦争  での 新政府 との 内戦 で 盛岡藩 が 秋田領内 へ 侵入 し 荒廃
  1870 / 明治 3年 大島高任 / 日本鉱業界 - 近代製鉄業 の 父 は 新政府 の 元 精錬所 を 再開
   する ものの 翌年 ドイツ へ 岩倉具視 に 随行 し 新精錬法 を 見聞 し 技術者 を 小坂 へ 招待
  1873 / 明治 6年 大島高任 に 代わり ドイツ人 技術者 クルト・ネットー 新精錬法 への 転換 を 開始
  1884 / 明治 17年 小坂鉱山 は 工部省 から 大阪 の 藤田組 に 払い下げ
  1887 / 明治 20年 銀鉱床 の 枯渇 が 近づく 頃 黒鉱 が 発見 され 精錬技術 の 進歩 を 待って
  1902 / 明治 35年 日本 三大銅山 へ
  1905 / 明治 38年 小坂鉱山 の シンボル に 小坂鉱山事務所 として 洋館 を 建設
  1908 / 明治41年 〜 1920 / 大正9年 日本初 と なる 露天掘り により 日本一 の 銅山 へ 変貌
    日本初 の 露天掘り で 採掘鉱量 が 飛躍的 に 増大 し 町 は 一気 に 繁栄 し 5000 人 を 雇用
     戦中 中国人 や 朝鮮人 が 過酷 な 労働 を 強いられ 死亡 し 強制連行 の 実態 も 含め 係争中
  1946 / 昭和 21年 元山 が 枯渇 し 坑内水 から の 沈殿銅 採集 に 移行 して 近隣 で 探査 を 開始
  1959 / 昭和 34年 内の岱 に 鉱床 が 発見 され 採掘 するが 枯渇 し 1990 / 平成 2年 全面閉山
   藤田組 ⇒ 同和鉱業 ⇒ DOWAホールディングス と 改称 され 現在 は 一大 グループ の 中枢 として
    小坂製錬所 を 稼動 し 海外 から 買い入れた 鉱石 の 精錬 や リサイクル を 行う 非鉄金属大手
  1971 / 昭和 46年 秋田製錬 - 飯島製錬所 起工  国内 非鉄金属 6 社 / 同和鉱業 や 日本鉱業 -
   三井金属鉱業 ・ 三菱金属鉱業 ・ 住友金属鉱山 ・ 東邦亜鉛 の 共同出資 による 世界 10 位 で 国内最大 -
    国内生産量 の 3割 の 亜鉛製錬所 を 現在 子会社化 し 傘下 に 加え 小坂 と 共 に 主力事業 へ
  秋田県 では 708年 発見 と 伝えられる 尾去沢鉱山 や 1700年 に 掘り始まった 荒川鉱山 等 多数
 
 
 
 存続 の 危機 に 小坂町 が 1998 / 平成10年 から 解体 し 2000 / 平成12年 鉱山病院 跡地 に 復元
 
   
 
 栄光 の 陰 で 語り 続ける 名 も 知れぬ 魂 の 軌跡  明治 の 世 に 明日 を 見上げる 光景 / こんな 風 に
 
  
 
   
 
 繁栄 する 日本 の 象徴 - 西洋文化 との 急接近 イスラム風 バルコニー 付き ルネッサンス調 の 外観
  に 和風 も 取り入れ ガラス貼り の 中庭 に らせん階段 で 近代西洋建築 の 傑作 と 賞賛 和洋折衷
 
    
 
    
 
  
 
 
 
  
 
   

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